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【第7章 科学の理 A】科学的世界観の背景

「近代」において、科学の世界観の果した役割は大きいといえるだろう。また、人間の歴史という観点から見ても、科学という世界観は異常なまでの速さで発達している。それまでに信じられてきた様々な世界観は科学的な世界観の発達とその拡大とともに少なくとも表面的には急速に衰退していった。つまり、様々な世界観は信じる対象であるということに加えて、科学によって分析の対象となっていったのである。しかし、だからといってこの科学的な世界観にしても決してそれまで信じられていた世界観の枠を超越しているものではないし、科学以外の世界観が単に分析の対象としてのものに限られてしまったというわけでもない。依然として他の世界観は生き残っているのであるが、しかし、科学という世界観がいったん入ってきてしまうと、科学的に分析する対象として自らのそれまで信じていた世界観を捉えざるをえなくなってしまうのである。

その意味において、科学の世界観は、それまでに存在した世界観とは一線を画しているといえるであろう。それでは、科学とそのほかの世界観とを明確に区別しているものは何なのか。

科学の世界観は、主に西欧で発達してきている。その西欧で信じられていた世界観は、この論文で扱った中ではギリシャ神話とキリスト教にあたる。これに対して、日本で信じられてきた世界観は古事記、陰陽五行、仏教である。ここで、今まで見てきたそれぞれの世界観と科学とを対比させて、その明確な違いを見ていこう。

 

科学的世界観の背景

科学の世界観といえどもそれまでに存在した他の世界観を無視しては語れない。ここでは今までに見てきた世界観を軽くまとめながら対比させていってみよう。

まず、第一章で扱った精霊や霊魂を基本とした世界観である。これは人間の感情を基礎とした世界観であって、精霊であろうが霊魂であろうが本来は実体を持たないものであり、そのそれぞれの精霊や霊魂はそれぞれ何らかの属性を持った「象徴」の集合体を自分達のいる「世界」として捉えるものであった。また、更にそこから発展した様々な呪術はどのようなものであれ、象徴への共感を基本としたものであり、さらにその呪術を基本としたシャーマニズムは象徴への共感を独占的に行うことの出来るシャーマンを中心に置いた社会構成であった。

しかしこの世界観は、精霊や霊魂が人間の感情という個人レベルの認識に集約されてしまうものを基本としている為に、その実在は証明されるものではなく、または証明すべきものでもなかった。だから精霊や霊魂の存在を感じ取ろうとしないような人間に対しては、その世界観はどのような効果も生じないという限界があった。逆に精霊や霊魂の存在を積極的に感じ取ろうとすれば、その人間にとっては大きな影響を及ぼすものであるといえよう。そして呪術には決してそれ自体が証明されることのない根本原理である「共感の法則」の存在を信じるという暗黙の大前提があった為に、その普遍的な実効性は疑問視されるべきものとなってしまった。

第二章で扱った多神教は、自然環境と人格を象徴する超人間的な神々が併存して存在する世界観で、属性を持つものの併存という意味から様々な象徴の併存する世界観であるといえた。特に日本においては、その世界観は権力によって応用され権力を裏付けする為のものとして編纂された歴史書という形をとっていた。

しかしこの世界観は人間の意志とは全く無関係に動いてゆく自然現象の属性を人格化し、人間が持っているような「意志」の中に集約しようとしたものであり、つまりは人間の意志とは無関係なものを人間の意志に関連付けるという矛盾を内包している世界観であった。

第三章で扱った一神教では、キリスト教とイスラム教を見ていった。キリスト教は全ての存在を包括する神を基にした世界観であり、人間がその神と同様の属性つまり肉体的に似通っていること、全てのものを生み出す源であった言葉を人間が使役できること、そして禁忌を破って苦しみと引き換えに人間のみが手に入れた、世界を解釈できるということがその大きな特徴であった。これに対してイスラム教は、唯一絶対の神を基礎とする抽象的な世界観でありながらも、キリスト教と違って儀式や宗教美術などで神に共感するということが一切許されていなかった為に、キリスト教のように人間が大きな力を獲得するというわけにはいかなかった。

この世界観も多神教の世界観と同様に人間の意志とは全く無関係に動いてゆく自然現象の属性を唯一の「神」として人格化し人間が持っているような「意志」の中に集約しようとした、人間の意志とは無関係なものを人間の意志に関連付けるという矛盾を内包している世界観であった。しかし多神教の世界観との大きな違いは、全てのものを統べる神によって人間に世界を解釈するという大きな力が与えられたことである。これは他の世界観との決定的な違いである。

第四章で扱った陰陽五行の世界観は、世界を陰と陽という万物を捉えるに当たっての二つの側面と、そして木火土金水という五つの象徴によって世界を解釈するしようとするものであった。しかし、この世界観は呪術における共感の法則と同様に陰陽説あるいは五行説という属性によって世界を解釈することが果して妥当であるかということの証明を欠くものであった。また、日本においては国家権力がそれを独占していた為に表面的な部分が先行し、その理論的な要素はほとんど流布しなかったのである。だから陰陽五行の理論がいかに精密なものでも、それが多くの人々の世界観に強い影響を与えるほどではなかったのである。

第五章で扱った仏教の世界観は、本来は究極の抽象である「悟り」を得、現世の苦しみから脱する為のものであったのだが、釈迦が入滅し時代が経つにつれて、特に日本においては自分自身が悟りを得ることによって苦しみから脱しようというよりも、既に悟りを得てしまった者にすがることによって自分が救済されようとする姿勢(他力)が本流になってしまい、ほんの一部の人間だけが究極の抽象を得ようとするだけになってしまった。また、仏教の目指すところの「悟り」というものの性質が決して他人には伝える事が出来ないものであることから、その原理が時代が経つにつれて難解になり、普通の人間には触れ難いものになってしまった。

それでは、これらの世界観と科学の世界観との関連はどのようなものであろうか。