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【第7章 科学の理 B】各世界観の比較

キリスト教は「神」という全てを包括する「抽象」的な存在を前提とした世界観であった。そしてその神という究極的・抽象的な存在と同じ姿形をしているのが人間であった。しかしこれは逆にいえば神という抽象的な存在が人間と同じ姿形をしている、つまりは人間と同じ属性を持ってしまっているということでもある。神は本来究極的・抽象的存在でありながら人間の属性という象徴的なものを持ってしまっていたのである。神という本来は抽象的なものが人間の姿形という象徴的なものとして捉えることが可能だったのである。これはもちろん矛盾することであって、本来の神という存在の理念とそれを表現する手段が一致していなかったといえよう。

仏教もキリスト教と同じで、その根本理念は全てを包括する「究極の抽象の世界観」を求めていくものであるが、その理念を伝達する手段として「言葉」という世界を区切っていく表現手段で表さざるを得なかったという人間の文化の限界ために本来は抽象の世界観であるものを象徴の世界観で表さざるを得なかった。また、究極の抽象を求めていながら、全てのものを受け入れるという大命題のもとでは象徴の世界観も受け入れなければならないという自己矛盾もあった。更に「悟り」というものの性質が決して他人に伝える事が出来ないという性質を持っていた為に、本来は万人を救う筈のものがが個人の中でしか意味を持たないものとなってしまっていた。ある意味でそのことに対する反省から他力本願の仏教が出現したといえよう。つまりは仏教もやはりその理念と表現手段が一致していなかったのである。

これに対し、科学の世界観は数学や物理学などに見られるように、抽象の世界観を記号あるいは数字というそれ自体は本来何の属性も持っていない表現手段によって表すものであるので、その理念と表現の手段が見事に一致しているといえる。例えば「X」という文字は本来何の性質も持っていない。[eks]という発音を持っているだけである。そしてこの発音自体には何の必然性もない。つまりこの「X」という文字にどのような性質を与えるかは人間の裁量によるのである。人間は意図的に記号を操ることにより自分で世界を造ることが出来るようになったのである。

つまり、科学と言うものは抽象の世界観を抽象の世界観を最も表現しやすい表音文字で表そうとすることによって、つまりは根本理念とそれを表現するための手段が一致することによって飛躍的な発展を遂げたものだと考えられるのである。

しかし、単に理念と表現内容が一致するだけであれば、アニミズムと表意文字による融合が現代社会に浸透していっても良いはずである。しかし現代では象徴の世界観よりも抽象の世界観のほうが受け入れられている。それはなぜか。それは抽象の世界観が象徴の世界観よりも人間が使役しやすいという理由によるのである。

象徴の世界観とは世界のあらゆる属性がそれぞれの個性を持って活動し、それぞれの属性にしたがってそれぞれのものが働くことによって世界が動いていると考える世界観であった。この考え方によっていくと、それぞれの属性はその属性を内包するものにとってのみ理解しうるものであって、例えば人間には人間の属性しか理解できないという考え方に落ち着くものであり、象徴が表す属性自体についての考察がおろそかになる。つまりは象徴の世界観には、個々の事物がどのような属性を持っているか、人間がいかにその属性をうまく利用できるかということに焦点があり、個々の事物がなぜその属性を内包しているかということに対する考察はおろそかになりがちなのである。つまり、例を挙げて云えば、声がどのように空中を伝わっていくかを理解しなくても会話はできる、という姿勢が象徴の世界観の基本的な姿勢なのである。これに対して抽象の世界観では個々の事物の内包する属性がもっと上位の概念である究極の抽象によって説明されると考える世界観であるので、なぜ個々の事物がその属性を内包しているかということを考えることが出来るのである。例を挙げて言えば、象徴の世界観では風が吹くのは自明のものとして捉えられ、注目されるのはいかに風をうまく利用するかということだけであるのに対し、抽象の世界観ではその風が吹くこと自体がどのようなものであるのかを考え、その結果を踏まえて風を利用しようと試みるのである。そしてその科学という抽象の世界観が発達するきっかけを与えたのはキリスト教の世界観である。第二章で述べたキリスト教特有の特徴が科学の発展に大きな役割を果たしているのである。

キリスト教特有の特徴とは「神という一人のものが全てを造った」「言葉が重要視されている」「人間が神と同じ属性を持つことを許されている」の三つであった。この中の「人間が神と同じ属性を持つことが許されている」ということが科学の発達に大きな貢献をするのである。世界を創造した神と同じ属性を人間が持っているということは人間にこの世界を創造するだけの資格が与えられているということにつながる。もっとも、人間はあくまでも神の手の内の中にいるものであり、決して全ての創造が許されたわけではなく極端な創造行為は道徳あるいは神の名のもとに規制される。だから厳密に言えば神によって人間に与えられた資格とは世界の創造行為というよりもこの世界を自分たちの自由に解釈するということなのである。

禁断の木の実を食べるという行為が人間に与えられた世界を解釈するという特権を際限なく利用し、その歯止めを無くしてしまった決定的なきっかけであるといえよう。人間の祖であるアダムとイブが善悪を判断する禁断の木の実を食べるとことによって、人間は当たり前であったことを当たり前でないと捉えることが出来るようになった。つまり人間は神が消極的な意志で持って与えた自分たちで世界を区切っていくという特権を積極的に利用することが出来るようになり、区切ったものに対して自分達で意味を与え、全ての存在の大前提として存在していたもの、つまり当たり前の存在としての神をも当たり前のものでないとして扱うことが出来るようになったのである。

この、世界を自分たちで解釈する資格をうまく活かすということが科学の発達の出発点である。前に上げた例でいえば、風が吹くということを単に人間の考えの及ばない風自身にしかわからない理由に基づいていると考えるのではなく、自分たちで風が吹く理由を考えることが出来るという考え方につながっていくのである。だから、全く意味を持っていないものに自分で意味を与えることの出来るいわば表音文字的な考え方が重要になってくるのである。

要するに表音文字を使ってものごとを考えていくやり方では、それぞれの文字に決まった属性がある表意文字を使って説明していくのとは違って、より抽象の世界観の理念に近い形で抽象の世界観を説明していくことが出来るのである。これが万物を記号で捉えるという側面を持つという意味においては同じ立場に立つ陰陽五行と数学の異なるところなのである。

陰陽五行は世界を説明するのに、最初から意味を持ってしまっている記号、つまり漢字を使っている。例えば五行の中の「水」という漢字はもともとの意味がある。しかし、前述のように数学で使われる記号、例えば“X”はその文字自体では何の意味も持っていない。人間自身がが時と場合によって“X”という記号に意味を持たせるのである(例えばa+13b=Xというように)。このなにも属性を持っていないものに対して人間自らが一定の属性を付与するということこそキリスト教の神に許された人間の特権であり、この特権があらゆる分野に拡大していったのが科学だと考えられるのである。このことから考えると実は現代においても科学はキリスト教の神に許された範囲の中で動いているのであるといえるかもしれない(別にキリスト教の神を賛美しているというわけではないので誤解のないように)。その解釈の対象を神という存在にまで及ぼし、人間が際限無くこの世界を解釈できるようになったものが科学なのであるといえよう。

村上 陽一郎氏は『近代科学を超えて』(講談社学術文庫1987)で、科学はよく言われているような、事実の世界だけを問題にしその事実の集積にからの帰納によって理論を得ていくものではないといっている。もし本当に事実を集積する事だけに科学の本質があるのなら、同じデータの集積からはたった一つの理論しか出てこない筈である。ところが、コぺルニクスが惑星の軌道が真円であると考えたのに対しケプラーは惑星の軌道は楕円であると考えたのだが、この二人の間がそれぞれの理論を導き出すのに使ったデータにはほとんど差異はない筈だというのである。つまり、同じデータを使ったにもかかわらずに異なった結果が導き出されたことの理由は、科学の理論というものは決して事実の集積のほうにその本質があるのではなく、そのデータを解釈する人間の考え方にその本質があるといえるのである。そして、更に重要なのはその導き出した理論がその当人だけではなく、他の人間にとっても再現が可能だということなのである。

同じ人間の為の世界観である筈の仏教が万人に通用するものを目指しながら目指すものが結果的に他人に伝える事が出来ないものになってしまったのに対し、万人に通用するもの以外は認めないという姿勢をとったのが科学であった。この姿勢は、キリスト教の「人間が世界を解釈する」という姿勢が根本にあるといえよう。科学の世界観の場合はその「人間」をたった独りの人間だけではなく、(基本的に)全ての人間というところまでに拡大したのである。まさに科学は万物を「人間」に集約してしまったのである。この事が科学の一つの特徴である「再現可能」に結びつくといえよう。

再現可能とはどういうことかというと、「必要な場合に、必要な手段をとったならば、再びそれを出現させることが出来るという確信が得られること」(中谷 宇吉郎『科学の方法』)である。例えば、幽霊はいまだに科学によっては説明されていないものであるが、それは幽霊が存在しないと証明されるからではなく、幽霊の存在が再現不可能な問題として残っているからである。だから、本来は幽霊を科学的に分析することはナンセンスなことであり、また、科学によって幽霊が説明されないからといってその存在を否定するのもまた同様にナンセンスである。つまり予期されない問題や再現不可能の問題に対しては、科学は無力であり、また本来はそのようなものは最初から科学の領域では扱ってはならないのである。しかし、再現が可能であるという事は誰にとっても理解が可能ということでもあり、それはその理論への信頼性を増すことになるのである。

もっとも再現可能の問題自体には限界がある。それは、全く同じものは絶対に再現できないということである。例えば誰かが熱を下げる薬を作ったとして、それを何人かの患者に与えたらいずれも熱が下がったとする。しかし、厳密に言えばそれぞれの患者は体力も、熱があった原因も薬の効き方もそれぞれに違うわけである。つまりそれぞれの患者には薬の効果は近似的にしか再現されないのである。このような場合は科学の世界では「統計」という考え方で解決している。つまり近似的なものを数多く取り扱うことによってそこに共通性を見いだそうとするものであり、そこから漏れたものは誤差と認識されるのである。

天気予報を考えてみよう。天気予報と言うのは紛れもなく科学的な根拠に基づいているものであるが、一般的には「気象庁の天気予報はあたらない」などと皮肉られている。しかし、例えば降水確率を例にとってみれば天気予報はほぼ100%あたっているといえる。降水確率は常にパーセンテージで出される。ということは降水確率はあくまでも確率であり、0%か100%でない限り雨が降っても降らなくても予報は当たったことになる。例えば降水確率が30%だったとしたら雨が降った場合は提示された数字の30%の中に入って予報は的中し、雨が降らなかった場合は提示されなかった数字の70%の中に入って予報は的中したと言えるのである。

つまるところ科学は、現在の段階において得ることのできる情報から再現可能の問題に焦点を当てて、100%に近い確率で再現を行おうとするものなのであるともいえよう。ある意味で科学は様々な物事の中から科学が取り扱うことが出来る面だけを取り出して説明しているに過ぎないといえよう。だから、決して「科学自体が価値判断の最終的な基準になる」ことはできないのである。つまり、「科学的である、ということは、正しいということを意味しないし、まして、善い、ということを意味しない。くどいようだが非科学的である、ということは、誤りである、ということを意味しないし、まして、悪い、ということを意味するわけでもない」(村上 陽一郎日本近代科学の歩み』)わけである。

いずれにせよ、「万物の人間への集約」「再現可能による万人への信頼性」の二つの点が科学が現代において大きな影響力を持っていることの理由だといえるのではないだろうか。つまり、科学によって人間は世界を好きなように解釈する自由を与えられたのである。