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【終章 自己という理 A】自分自身

人間は自分の属している世界がどのようなものであるかを考え、その考え出した世界観の中で生きてゆく。それぞれの時代で世界観はほぼ絶対のものとして捉えられる。ある世界観が絶対のものではないとわかるのは常に別の世界観がそれまでの世界観にとって変わられたときに起こる。一つの世界観の中にいながらにしてその世界観自体の矛盾を見据えることはほぼ不可能だからである。閉ざされた一つの世界の中ではその世界を見つめることは不可能なのである。また、人間の考え出した世界観が絶対のものであれば、世界観の変遷というものはなかったはずである。世界観は絶対のものではなく一つの閉ざされた世界だからこそ今まで様々に変遷を繰り返し、あるいは同時代に別の世界観が併存するのである。そして我々は一つの閉ざされた世界から別の閉ざされた世界を覗き、それに解釈を加えるのである。それが世界観について考えるということであり、人間が自分にとっての善悪を判断するということでもある。

現在では科学の世界観が時代の主流を占めている。しかし、人間の歴史を見てみたときに、科学が今までに変遷してきたようなほかの世界観とは違って絶対的なものであると言い切れるだろうか。将来に科学以外のものが世界観の主流を占めることには決してならないと誰が言い切れるだろうか。人間が考え出してきた世界観というものは、本来は人間のために考え出されたものの筈である。宗教や世界観とはいわば空間的な束縛を受けていない社会であり、社会一般がそうであるように人間の集団を方向づける力を持ったものであるといえる。一つの文化の中である世界観が信じられているうちは、その文化に属する人間が自分の生きている世界を捉える際にはその信じている世界観を全ての基準にすることになる。生まれたときから属している文化の中で話されている言葉や、教育のされ方、親の育て方など自分が普段接している全てのものに人間は影響を受けている。更にもっと言えば、全ての人間は単に個人に対する外界という関係だけではなく、自分自身の内側からも遺伝という形で影響を受けている。遺伝は個人という枠組みを超えたところで長い年月の間に獲得されてきたものであり、人間があらかじめどのような文化社会の中に生まれてくるかを決める事が出来ないように、もって生まれた変えることのできない当たり前の要素として常に個人を支配しているのである。

しかし、そのような当たり前の要素としてのどの世界観も人間を苦しめる方向に働くような要素を含んでいる。これは科学とて例外ではない。

全ての苦しみは自分が物事を精神的に受け入れられなくなったときに生じる。あるいは、今まで受け入れてきたものの中に受けいれられないような要素が生じた場合、または今まで受け入れてきたものの中に受け入れられない要素があることに気付いた場合に苦しみが生じる。つまり、苦しみというのは必ず受け入れられないということと表裏一体なのである。例えば「痛い」という感覚は、その「痛み」を簡単に受け入れてしまうことの出来る人間にとっては苦しみとはならない。マゾヒズムの人間がこの良い例である。人間に限らず全ての生物には本能的に自分自身の生命を保全しようとする生命保全の機能がある。「痛み」という感覚もこれに属するものである。「痛み」とは、ある生命に対して何らかの刺激が加えられた際に、その刺激が通常の生命維持活動を脅かすようなものであるときに、神経が脳に対して送る警告である。そして人間はそのような生命維持活動を脅かしかねないような刺激を本能的に避けようとし、例えば針で指先を刺してしまったような場合には目にも止まらぬ速さでサッと手を引っ込めたりする。しかし、マゾヒズムの人間はこの本来は生命維持活動にとっては潜在的に脅威であるはずの「痛み」に快感を覚える。このことは生命の本来の性質からすると、にわかには信じがたいことである。しかし、この「痛みに対して快感を覚える」ということは実は本来の生命活動とは直接的には関係の無いことなのである。

つまり、マゾヒズムの感じる快感と、生命維持活動にとっての「痛み」とは別個に区別されたものなのである。たとえマゾヒズムの人間であっても生命維持活動の危機という意味での痛みは感じるのだ。しかし、多くの人間と彼らが違っているのは、彼らが精神的に生命維持活動の一環としての痛みを受け入れてしまうのである。多くの人間は生命維持活動の一環としての痛みを精神的に受け入れることができない為に、痛みを不快として感じるのである。だからマゾヒズムの人間というのは自分に加えられた痛みを快感として受け取ってしまう。わざわざ自分を痛めつけられることを求めたりする。「痛み」というものに対して快感を覚えるということ自体は病的ではない、と私は考えるのである。

この事から考えると、苦しみを解決する方法は二つある。一つは苦しんでいるということを受け入れてしまうことであり、もう一つは受け入れられない物事を受け入れられるものに変えることである。どちらが善いとか悪いとかいったものではない。どちらも人間の苦しみを解決する方法としては同格のものとして扱うことが出来る。しかしあるひとつの世界観の中においては自分自身で受け入れられない物事を変えようとする手段にはあくまでもその世界観が用いられる。だから、世界観自体が抱えている矛盾をその世界観学が解決しようとするときにはいっそう苦しむこととなってしまうことになる。例えば科学の世界観、つまり世界を解釈する基準が全て人間であるという世界観から抜け出ることも必要となってくることもあるのだ。