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【終章 自己という理 B】人間と科学

現在は科学の極度の発達による反省もなされているようだ。科学的世界観が非人間的であるとして批判する人もいるようだ。しかし私が思うに科学的世界観は決して非人間的なものではない。科学的世界観も元来は人間の頭の中で考え出されたものに過ぎないという意味では非常に人間的なものなのである。それどころか、人間にすべての判断基準を億個とを暗黙の了解としたという点で、ある意味もっとも人間的なのである。

問題はどこにあるか。それは、科学的世界観が極度に人間的な世界観だったということによる。つまり、人間が自由に使役することの出来る、人間のための世界観だったということが、逆に足かせになったのである。社会という視点で見たときに、自由と責任は常に表裏一体にある。だから、本来は自由を手に入れたものにはもっとも大きな責任がかかってくるはずである。さて、西欧科学思想においては人間は自分自身で物事を解釈する、あるいは世界を解釈するすべての基準を人間に置くという自由を手に入れた。それでは、科学の世界観という空間的な束縛のない一つの社会はその自由に伴っているべきである責任を果たしてきたであろうか。

私が思うに、おそらく西欧科学思想は今まで科学が人間に自由を与えた代わりに人間に責任をも科していたのだということに気付いていなかったのだ。その反映が数々の環境問題に対する反省であったりするわけである。科学という世界観は自分自身で自由に使役できるものであり、その魅力に取り付かれたものたちが自分の思うままに世界を解釈し、またそのことの便利さから、科学は世界に広まっていった。そのようにして、多くの人間が科学という権力を手に入れたときにどうなるか。人間は本来は自分たちが解釈したものに過ぎないものを究極の抽象として受け入れてるようになってしまったのである。本来は人間という属性の中でしか通用しないものを万物に通用するものとして解釈してしまった。

人間以外の動物や植物にとっては、“1+1=2”であろうと、風が吹くのが気圧の差によるものであろうと関係ない。全ての生命に「業」があろうとなかろうと関係ない。輪廻転生しようがしまいが関係ない。罪悪観を感じながら自分の食いぶちのために他の動物を殺すこともない。ただ無心に生きるために他の動物を殺し食料としたり、植物を食べたりするだけである。そこに何の疑問も感じることはない。生命を絶対に奪ってはいけないということになってしまったら、人間は絶対に生きていけない。自分たちのエネルギー獲得の手段つまり「食料」が獲得できなくなってしまうからだ。それでは人間は生きていけない。動物を殺してはいけないことになるし、植物だって生きていることには変わりない。ベジタリアンとて生命は奪っている。動物の生命を奪うのは良くないことであり、植物の生命は奪っても良いと線引きしているのは人間だ。どちらも同じ生命には変わりないのに。

しかし、そういっては生きていけない。人間が生きていくには最低限、他の生命を奪うことが必要になってくる。全ての生命が生きていくには最低限、他の生命を奪うことが必要になってくる。それを「業」と呼ぼうがなんと呼ぼうが本来は関係ない。肝心なのは人間が生命に重きを置き、生命を奪うということ罪悪を感じるようになったということなのだ。だから奪ってもよい生命と奪ってはいけない生命との間に線引きせざるを得ないのである。しかし人間は、それはあくまでも自分たちが線引きしているものであって、決して絶対的なものではないとは、なかなか思いにくいのである。

自分が取り扱う世界を線引きするということは井の中の蛙であるということと同じである。しかし井の中の蛙は井戸の外の世界に住むものから指摘されない限り自らを恥じることはない。彼らの世界は井戸の中に限定され、他に世界が存在することを知らないのだから。しかし、誰かが井戸の外にもっと大きい世界があることを蛙に教えたり、あるいは蛙自身がなんらかの拍子にそれに気づいてしまったらどうなるであろうか。自分が狭い世界に住む一方でもっと広い世界に住むものがいるということをもし受け入れることが出来ないのだとしたら、蛙は恥じ、自分が狭い世界から出られないことに苦しむであろう。

究極の抽象を体現していたかに見えた科学といえども、人間という属性を超えることは出来ないのだ、ということがもはやわかってしまっている。そのことはキリスト教においては「禁断の木の実を食べて世界を解釈する」ということにおいて予定されていた。つまり、禁断の木の実を食べて世界を解釈する力を手に入れた人間は、また苦しみをも感受せざるをえなくなったのである。それは単に、聖書に書かれているような男は土地を耕さねばならないだの、女は子どもを産む苦しみを味わうようになっただのといったような単純なものではないのだ。キリスト教の神が善悪を判断する木の実を食べるのを禁じたということが、私にとっては人間を幸せな井の中の蛙に止めておこうという神の意志を象徴しているように思えるのだ。つまり世界を解釈する自由に伴う責任の重荷から逃れることへの憧憬ではないのかと、私は思うのである。

例えば井の中の蛙が何かの拍子に井戸の中から出てくることがあったら、どうなるのか。おそらく蛙は戸惑うであろう。今まで自分が狭い世界の中でのんびりと暮らしていたものの、いきなり自分の足でどこへなりとも行ける広い世界へ出てきてしまったのだから。まずは決めなければならない。どちらの方向へ足を踏み出すか。どちらの方向へ足を踏み出したとしても、今まで井戸の中にいた蛙にとってはそれは未知の世界なのである。何があるかわからない。自分自身で決定した進路の先に何が待ち受けているかは全くわからないのである。そのことは、本来大きな不安を伴うはずである。

しかし、人間は科学的な世界観でものを考えるようになると、無意識のうちに自分たちの基準で万物を解釈するということの自由への開放感に浸り、それに付随する責任というものについてほとんど考えることなく、好き勝手に世界を解釈しだしたのである。そしてはたと気付いた時、自由には責任が伴うということを、取り返しのつかないような形で思い知らされたのである。それは例えば環境問題であったり、資源問題であったり、人口問題であったりする。