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【終章 自己という理 C】人間と科学の矛盾

地球上に存在するものを人間の使いやすいように加工することによって、人間の文明は発達してきた。あるいは森に存在する木を切って加工し、土の中から鉱物を掘り出して製錬し、川が氾濫するからといって川の形を変えてきた。このようなことは他の生物はほとんど行わない。人間の文化という営みで特徴的なのは、生命維持あるいは種族維持という点において純粋に生物としては不必要なことを行っているということである。木を切って家を建てたり、鉄を精錬して武器を作ったりということは、生活を便利にするものではあるが、純粋に生命維持の為としては本来必要がない。

しかし、この不必要なものの集積が人間の文化であり、「人間」という言葉はもはやただ単に地球という一つの星に存在する一種類の生命としてではなく、その裏には人間が今まで蓄積してきた純粋に生命として不必要なものの集まりとしての文化の存在があるものとして捉えられるようになっている。だから、人間らしく生きようとすることは大体の人間に受け入れられるであろうが、純粋に生命として生きることに不必要なものをすべて排除し一個の生命として生きるなどということは、多くの人間にとっては実感の無いものとして、受け入れられないであろう。ある意味で人間とは不必要なものを必要とする事によって単に一個の生命体としての性質を超えるようになったのである。

世界観とは、その人間の作り出した純粋に一つの生命体としては不必要なものの中に含まれるものである。しかし人間は多くの不必要なものを必要にしたのと同様に、世界観を人間にとって必要不可欠のものとした。その集積が歴史と呼ばれるものなのである。だから、人間以外の生物が歴史を感じることがない。人間以外の生物にある過去の集積は、歴史ではなく、遺伝なのである。過去の集積というものはすべての生物にとって影響を与えている。人間も、遺伝に影響を受けている。影響を受けているからこそ、生物としての人間は存在する。しかし、人間は遺伝という過去の集積に加えて、もう一つの過去の集積を持っているのである。それが歴史である。人間にとって歴史というものが大きな影響を与えるという事は疑念の余地がない。それはたとえどんな小さなものでも、社会あるいは文化と呼べるものがあるところでは言える事である。社会も文化も歴史に大きな影響を受けているものだからである。

そしておそらく、その全ての生物に備わっているものとは違ったもう一つの過去の集積が純粋に生物としては人間に不必要なものを必要とさせるようになっているのではないだろうか。

科学は既に自分自身を解釈し、科学には責任が伴っているということに気付いている。あるいは気付かざるをえなかったというべきか。現在のところ、科学は世界を解釈する自由に伴う責任をいかに果たさなければならないかということを模索中である。しかし、自分で好きなように世界を考えるということに伴う責任はあまりにも大きすぎる。その大きすぎる責任を人間は誰の助けも借りずに人間自身で考えなければならないのである。

その結果自分自身の限界を受け入れられなくなってしまうのだとしたら、科学は自己矛盾に苦しむ時代に突入することになるであろう。それはまさに人間が人間であるということに苦しむものである。人間が自分自身を解釈し自分自身を確立することによって苦しみが増えていくというものである。これは陰陽五行思想の中の「相生の中の相剋」の考え方に当たるといえよう。どこにいても、何をしても、人間であるということからは逃れることが出来ないのである。人間は本来人間のために様々な世界観を生み出してきたのである。しかし、果たして人間は苦しむだけの存在であろうか。何かに気づいてしまった人間は苦しまざるを得ないのであろうか。人間であるということから逃れることが出来ないのであれば、釈迦が教えたように人間であるということに気づき、それを受け入れることが人間を苦しみから解放することになるのではないだろうか。そして、「受け入れる」とはどういうことなのだろうか。