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【終章 自己という理 D】宗教と世界観

宗教は神という神聖不可侵で覆してはならない大前提のもとでしか理解出来ないものであるという批判が科学の世界観の立場に立ってなされることがあるかもしれない。しかし、科学自体も人間という神聖不可侵で覆してはならないものを前提として成り立っているものであるといえよう。人間が自由に世界を解釈し、人間のために世界を利用しようとする姿勢が科学なのだから。

科学が絶対の世界観ではないことは学問の世界ではもう既に論じられていることだという。しかし、一般の人々にそれが浸透していってないのだとしたら、それは宗教が今までやってきたことと何ら変わりはないのではないか。つまりそれは、キリスト教において司教や司祭と行ったランク付された人々のみが神と直接に結びついているのであって、一般の人々は教会を通してでなければ神との交信が出来なかったという宗教革命直前のカトリック的な考え方と同じであろう。また、科学が絶対のものではないと一般的に浸透したとしてもそれがなぜそうなのかということをほんの少数の人間のみしか知らないのだとしたら、「昨日まで教わっていたことが今日から間違い」といったような事を言われて民衆がわけもわからずにただそれに従った戦直後の日本の教育のような事態が生じるのではないか。

そして極度に世界を細切れにし、学術用語や横文字を多用することによって一般人にとって理解しにくくなっている今の学問の体質が私はあまり好きではない。たとえ科学の発展のためにそれが必要なことであっても。自分が人間であるということに気づいた人間は、自然と他人をも尊重せざるを得ない。なぜなら自分が人間であることがいかに大切なものかが分かれば、他の人間も自分と同様大切なものであると分かるからである。自分と他人を比べてみて、自分の知っていることを他人が知らなかったからといって他人を馬鹿にしたり見下したりは出来ないはずである。なぜなら自分が知らないことを他人は知っているのだから。現代人は知識の量を重視しすぎだ、と私は思う。確かに知識は大切にすべきだが、本来知識というものは自分が世界を解釈する際の土台となるべきものであって、大事なのは自分がどう世界を解釈するかということだと思う。それは仏教の経典が「悟り」そのものではなく「悟り」に至る道標にすぎないということと同じである。

例えば、キリスト教は宗教改革によって神は教会を通してのみでなく個々人が直接に結びついているのだという考え方をするようになった。しかし、イスラム教においては神が個々人の人間と直接に結びついているということは宗教改革が起こる千年近く前から既に自明の理だったのである。だとしたら、キリスト教はこの点においてイスラム教に劣っていたといえるのだろうか。イスラム教の側からキリスト教を見下すことは妥当であろうか。あるいはキリスト教がこのような考え方に至ったということは、すでにイスラム教によって同じ考え方が見出されていたという点において無意味なのだろうか。また、科学が人間を超えられないということはすでに学問の世界では当然のこととなっているという。しかし、人間の作り出した世界観が人間を超えることが出来ないということはすでに仏教の世界では、科学がそれに気づく以前に自明のことであったようだ。ならば科学は、20世紀後半になってやっとそのことに気づいたという点で仏教より劣っているのだろうか。少なくとも、私はそうは思わない。

つまり何が言いたいかというと、過去にほかの人間が言及していることをたまたまそれと知らずに述べることが意味が無いのだとしたら、科学の世界観によって見出されたことも見方によっては意味が無いことかも知れないのだ。既に過去に科学以外の世界観で述べられていたことを単に科学の世界観に生きる人間が知識として知らないだけかもしれないからだ。

「いったいあなたは全ての物事を知っているのですか」

人間は人間を超えることは出来ないし、私は自分自身を超えることは出来ない。だから私はこの論文を書くに当たって最初から最後まで自分らしさを追求したつもりである。しかし、いくら科学的世界観以外のものを使って論文を書こうとしても、論文を書くことつまり世界を自分の好きなように区切っていくという行為自体が科学の世界観によるものである。だから何をしようと思っても、限界はあるのだ。除外すべき部分があるのだ。その限界にいちいち空しさを感じていては何もできない。

人間は自分あるいは人間というものの理解の範囲内で世界を区切っていき、それを自分の属する世界の全てに適用しようとする。言い換えれば、人間は自分という、あるいは人間という「象徴」的なものによって世界を区切り、その区切ったものを「抽象」的に扱うのである。

科学の世界観の中では、当初は科学が究極の抽象であるかのように思われていたが、現在では科学の世界観もそれ以前に存在した様々な世界観と同格のものであるということは当たり前になっているようだ。つまり科学も科学という属性を持った象徴的なものであるということがわかったわけである。しかし、ここで注意しなければならないのは、科学が完全に象徴の世界観であるとか、抽象の世界観であるとかいうことは言えないということなのである。さまざまな世界観が「象徴の世界観」と「抽象の世界観」という二つの世界観で捉えることができ、多くの世界観はその二つの性質の両方を持っているということは、今までの文章を読めばわかったはずである。ではこの一見異なった二つの性質はどのようにして一つの世界観の中に両立しているのか。

「世界」という言葉の意味するところは、自分自身を基礎にした世界と、自分自身とは全く無関係に動いている世界という二つに分けることができるだろう。あるいは仏教の章で出てきた用語を使って、アートマン的世界とブラフマン的世界と言い換えてもいいかもしれない。この二つに分けられた世界の一方ともう一方の世界の間での行き来がある場合に、「象徴の世界観」と「抽象の世界観」の間での変換が起こるのである。この事について、例えば「言葉」を例にとって考えてみよう。

自分自身を基礎にした世界とは、自分がどのように世界をとらえているか、ということであり、これは世界観の基本となることは明らかであろう。実はこれは全てのものの基本となっている。例えば、ビデオカメラといったものの存在を知らなかった人間がいた場合、その人にとってはビデオカメラというものはこの世に存在しないのである。これは当然のことである。だから本来、何かの物事を知っているとか知らないとかいうことはあまり問題ではないのだ、と私は思う。なぜなら、自分自身を基礎にした世界において、自分自身とは無関係に動いていく世界の全てのことを知っているなどということはありえないからである。どのような人間も、自分を取り巻く外界のほんの一部のことしか知らないのである。だから私に言わせれば、何かの知識を持っていないということが自分自身を基礎にしている世界の中で恥ずかしいと認識されることはないはずなのである。