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【終章 自己という理 E】人間と世界観

人間は自分自身がどのようなものであるかを考える。自分がどんな人間なのか、どのような性格の人間なのか。そして一人の人間が生きている限りそれは続いていく。しかし、ここで注意しなければならないのは自分自身がどのようなものかを考えることそれ自体が独立して存在することはないということである。つまり、人間は必ずどこかの社会に属し、その社会の中で通用する言葉を使って、その社会の中で通用している世界観の中で育っていく。この事が、自分自身を基礎に外界を認識する際に、少なからず影響を与えるのである。

この、自分自身を基礎とした世界に影響を与えるものはたくさんある。例えば、遺伝子による遺伝情報がそうである。白人は白人に、黄色人種は黄色人種に、あるいは黒人は黒人に、場合によってはその混合という形がとられ、これは基本的に一生変わることはない。また、その際に遺伝病などの不確定因子も引き継がれる。この事は、人間が「自己」を形成していく過程ではあまり関係ないようにも思えるが、実はほとんど変えることのできない、普段は自覚しないあまりにも当たり前の基本的な因子として常に人間に働いている。例えば、白人社会の中で白人として生きていくということは、その人間にとって人格形成において遺伝によって自分が白人に生まれたということはたいして大きな因子とはならないように思えるが、白人社会の中で黒人が生きていくということになったとしたら、その人間の人格形成にとって遺伝というものが大きな影響を与える因子となろう。また、発症例の少なかったり、外見に変化を与えてしまうような遺伝病を持っている人間が人格形成において遺伝という因子から受ける影響は大きなものとなろう。

また、自分がどのような文化あるいは世界観の中に生まれたかということも人格形成には影響を与える。今まで様々な世界観を見てきたが、そのそれぞれが様々な特色を持っていた。また、言葉の性質によってその文化の自己観念が異なっているので、それが人格形成に影響を及ぼしているということも考えられる。

人間が自分自身というアートマン的世界で自分以外の世界というブラフマン的世界を区切ったときに、まず外の世界という自分以外の全ての属性を含んでいる抽象的な世界が自分自身という属性を持った象徴的な世界に変換される。そして今度は自分自身が認識したものを外の世界に表現しようとしたときに、自分自身という象徴的な世界(アートマン的世界)から自分以外の全てを含んだ抽象的な世界(ブラフマン的世界)へと変換がなされる。その変換は言語によってなされる。言語というものはその言語を使う不特定多数の人間に通用するという抽象的な性質をもっているからである。しかし言葉を発したものにとっては、その言葉によって表されるものはたった一つの意味しか持たない、つまり発した人間の意図という属性を持った「象徴」的なものであるが、その言葉を使う人間達の中では一般的な記号という共通の意味を持つ「抽象」的なものとして扱われる。つまり、言語を発した人間にとっては「象徴」的なものであった意味が、言語という一般共通の意味を持った「抽象」的なものに変換され、更にその言葉を受け取る側は自分自身の知識あるいは認識の範囲内という「象徴」的な世界に言語を変換する。

人間が世界を認識し、言語を発してそれを他人に伝達するということは「象徴」と「抽象」の変換を積み重ねるということなのだ。この変換がうまく働かなかった場合に、誤解が生じるのである。しかし厳密に考えると、この変換が完璧に行われることなど決してない。世界という言葉の意味するところは「自分自身という世界と自分以外の世界という二つ」であり、自分自身という属性を持った象徴を基準として二つに分けられているのであり、そのことで各個人個人のアートマン的世界とブラフマン的世界の範囲は、つまり象徴と抽象の範囲は異なったものとなってしまうからである。

つまり人間は、各個人個人というそれぞれに異なった基準値を持つ変換機構がそれぞれ変換を繰り返すことによって様々なことを伝えようとしていくのである。もともと基準値の異なったものが変換を繰り返すのであるから、言語を媒介しての変換に正しい変換というものは存在せず、より近似的な変換というものしか存在しないのである。言葉は意志そのものを表しているのでなく、意志の変換媒体に過ぎないのである。

 「言葉にすれば、それは全て嘘になる」

そして正確に言えば、アートマン的世界という「象徴」は決してブラフマン的世界という「抽象」と切り離されているものではない。なぜならブラフマン的世界を認識するアートマン的世界の形成は常にアートマン的世界とブラフマン的世界との接触によってなされるからである。もっと分かり易く言えば、世界認識の基本となる自我は自分が属している社会や文化の影響を強く受けるということである。常に「抽象」は「象徴」の影響を受け、「象徴」は「抽象」の影響を強く受けているのである。だから、「象徴」的なものの中にも「抽象」的な視点というものを見出すことは可能になるのである。この論文の中で何回も確認されているとおり、「象徴」も「抽象」も一つのものを捉えるときに使うことの出来る二つの視点であり、決して独立に存在するものではないのである。ちなみに二元論というのは決して対立するものではない、というのが私の考え方である。

アニミズムやシャーマニズムは精霊や霊魂という「象徴」に対して「象徴」での接触を試みたものであった。多神教の神というものは人格や自然現象の「象徴」であった。一神教の神は「抽象」でありながら人間の似姿という「象徴」の性質に変換されて認識されていた。陰陽五行は陰と陽という二つの「抽象」と木火土金水という五つの「象徴」によって世界を捉えようとしたものであった。仏教は苦しみから逃れるために世界を「抽象」的に認識しようとしたものであるが、有効な伝達方法が文字という「抽象」を「象徴」に変換する媒体しかなかったという人間の限界によって「抽象」を有効に伝達することはできなかった。科学はキリスト教の持っていた「抽象」への接触がより有効な形で発揮されたもので、そのことによって文明を飛躍的に発達させたが、今のところまだ人間自身という「象徴」を超えることはできていない。そしてこれらの「抽象」と「象徴」という世界観の捉え方は言葉や文字の特性に顕著に表れていた。

そして、そこから導き出したもの。