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【終章 自己という理 F】完

「私は全てであり、全ては私である。あなたは全てであり、全てはあなたである。それならばあなたは私であり、私はあなたである。そして私は全てであり、あなたは全てである。全ては私であり、全てはあなたである」

どのような世界観においても世界を認識する際に、「私」は全ての基準である。そして「私自身」は「私以外のもの」との比較によってのみ認識される。だから「私以外のもの」「私自身」を生み出す源泉でもある。また、その全ての基準になる「私」は、「私以外のもの」の中に「私」が生きることによって形成されてきたものである。だから、「私」を取り巻く全てのものが「私」の源泉でもある。「あなた」が世界を認識する際に、「あなた」は全ての基準である。そして「あなた自身」は「あなた以外のもの」との比較によってのみ認識される。だから「あなた以外のもの」「あなた自身」を生み出す源泉でもある。また、その全ての基準になる「あなた」は、「あなた以外のもの」の中に「あなた」が生きることによって形成されてきたものである。だから、「あなた」を取り巻く全てのものが「あなた」の源泉でもある。そして「私」は「あなた以外」の中に入り、「あなた」は「私以外」の中に入る。それならば、「私」も「あなた」も世界の基準であるという意味においてお互いに尊重すべき同格のものとして存在しているのだ。

そのことがわかったとき、どうして軽々しく他人を非難できよう。否定できよう。他人の発した言葉を自分が近似的に変換し損なった可能性があるというのにどうして言葉のみによって他人を判断できよう。どうして自分と他人の世界の区切り方が異なる「言葉」を全ての判断基準とすることができよう。

しかし、人間は現在のところ、言葉以上に有効な伝達機構というものを持っていない。人間が言葉を使っている限り、言葉が個々人で変換の基準値の異なる変換媒体の一つにすぎない以上、今後も世界観は変遷していくであろう。釈迦はそのことを「諸行無情」といったのではないだろうか。ならば世界観の変遷を受け入れなければ、苦しみに陥るだけである。

だが、苦しみに陥らない方法はもう一つある。それは世界観の変遷が停止することである。つまりそれは、人間が「象徴」と「抽象」という変換を行わないような意志の伝達方法を見つけたということを意味する。

「理(ことわり)」の変遷の終嫣。それが果たして良いことか悪いことかは、自分自身という象徴の許す範囲で決めるしかないのであろう。




「蒼き季節の果てにて空白なる紙を前に坐る。綴るには遙に多き量にて、わずかな人生にても我等ゴミにあらず。人でありしことに愕然とする。」ーー『人間交差点 (7)