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【序章 理の探究 B】「理(ことわり)」の定義

(このページに記載した文は、学術的な視点に基づいて作成した部分であり、学術的な視点での文章の読解を望まない人にとっては、内容を分かりにくくするだけの無用の長物です。飛ばして次のページに行ったとしても、大して問題はありません。ただし、最後の段落だけは読んでおいたほうがよろしいかと思います。)
本文章での「理(ことわり)」とは、「ある一定の範囲内において通用する、その範囲内にある基本的に全てのものを律し、関係を決定づける働きを持っているもので、その範囲の外にある存在に対しては積極的に影響を及ぼすことの無い、人間によってその存在の根拠を与えられる予測可能性の原理」である、と定義する。そして、この論文ではその「原理」を主に世界観の原理という側面で考える。
「一定の範囲内において通用する」ということは、この世の中に存在する全てのものに当てはめることができないということを指す。だから当然、様々な「理(ことわり)」が存在しうるのであり、ある一つの「理(ことわり)」の範囲内の原理は、別の「理(ことわり)」の範囲内の原理には通用しないということをも表すことになる。
Aという世界観の中で信じられていることは、Bという別の世界観を信じている人間に通用するわけではない。それが「その範囲の外にある存在に対しては積極的に影響を及ぼすことの無い」という言葉の意味するところでもあるといえよう。
例えば、法律学や経済学はそれぞれ別個の「理(ことわり)」であるといえるものだが、通常は互いの領域を侵し合う様なことはしない。だから、「法律学」「経済学」という別々の考え方が、一つの世界の中で両立し続けるのである。
「基本的に全てのものを律し、関係を決定付ける働きを持つ」とは、ある特定の「理(ことわり)」の中に存在するものがそれ以外の他の「理(ことわり)」を全く受け付けないというわけではないことを指す。
例えば、法律は「理(ことわり)」の一つの形であるといえるが、だからといって私たちは日常生活の全てを法律の考え方によって暮らしているわけではない。しかし、法律というものは基本的に私たちの生活の全てを包括しうるようにとの努力が為されて細かく条文が分かれている。
基本的には、日常生活において法律という一つの「理(ことわり)」が役に立つのは、人間が積極的な意志で法律という「理(ことわり)」によって物事を処理しようとするときであるといえよう。
それに加えて、法律は条文という形で確認されているもののほかに慣習法という法制化されてはいないが日常的に行っている法(=「理(ことわり)」)がある。
慣習法の存在が明確に認識されるのはやはり人間の積極的な意志によって慣習「法」という形で認識されたときである。
つまり、法律は私達が普段暮らしている中で確かに存在してはいるが、普段は忘れ去られていることがあり、そのことが明確に認識されるのは人間によって確認されたときなのである。それが「人間によってその存在の根拠を与えられる」の意味するところである。
そう考えると、「理(ことわり)」とは「理論」とは異なるといえよう。
「理論」とはある原理を基にして人間によって考え出されたものである。だから、理論は人間の予測の範囲を出るものではない。その理論に関するものが人間の予測の範囲を超えてしまったら、その理論は覆されるかあるいは修正されるであろう。
それに対して「理(ことわり)」とは、人間によって考え出されたものではなく、人間の思考や自我とは無関係に存在する。
つまり、ある一つの存在と他の存在が互いに何か一定の影響を及ぼし合っていれば、その互いに及ぼしている一定の影響の存在がたとえ人間によって認識されようとされなかろうとそこには「理(ことわり)」が存在するといえるのである。
そこが「理論」と大きく異なるところである。理論は人間によって構築されてはじめて存在できるようになる。「理論」は人間の思惑通りになるようになっているが、「理(ことわり)」は人間の意識と無関係に存在し、ひとりでに動いていくものなのである。
しかし人間に認識されない「理(ことわり)」というのは人間にとっては存在していないものと同じ扱いになる。つまり、人間は認識していないものについて何かを考えることは出来ないのだから。
さらに、「理(ことわり)」は「法則」とも異なる。
法則とは一定の条件の下で常に存在する関係である。「理(ことわり)」とはある意味で法則の集合体ともいえるがしかし、「理(ことわり)」はあたかも一つの人格のような機能を持っている。
例えば一人の人間がいつもある一定条件の下では一定の行動をとっていたとする。その人間のその行動が度重なった場合、それをその人間の法則というであろうか。
言わないのである。なぜなら、人間の行動というものは自分の意識でもって変えることが可能だからである。いつもやっている行動だからといってもその人間が一定の条件下ではいつも全く同じ行動をするとは限らないのである。観察者がそれまでの経験に即して予測することなら、可能であるが。
それが「予測可能性」ということである。だから「理(ことわり)」というのは、無責任なようであるが「基本的に全てのものを律し、関係を決定づける働きを持つ」ものであってそこから漏れてくるものも当然あるのだ。
私は、どのような世界観でもそこにはある特定の「理(ことわり)」が存在し、別々の世界観同士での相互理解が容易でない理由は、互いの「理(ことわり)」同士での変換がうまくなされないものと考えている。
だから、この論文では私が個人的に興味を持っている世界観に流れる「理(ことわり)」の例をいくつか挙げた上で、様々な世界観を理解することがどのようにしたら可能になるかを考えてみたい。
その作業の過程において私は、人間が世界観を説明しようとするときはだいたいが二つのパターンに分けられるのではないかと考えた。
私はとりあえずそのうちの一方を「象徴の世界観」と名付け、もう一方を「抽象の世界観」と名付けることにした。だからこの論文においては全ての章で、これらの世界観を捉える二つの視点を基準にして文章を進めていこうと思う。
それではここで、その世界観を捉える二つの視点「象徴の世界観」と「抽象の世界観」をそれぞれ定義してみよう。