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【序章 理の探究 A】世界観への疑問

現在私たちが生きている中で、西洋から入ってきた思想は大きな力を持っている。
明治維新以前に日本に見られたような風俗や習慣、思想がだんだんと消えていく一方で、海外から入ってきたいわゆる「西欧的な」習慣や思想が日本に浸透し、そんな中で私たちはほとんど何の疑問もなく暮らしている。
例えば「大学」というシステム自体が西欧のものであり、そこに属するというだけで社会的なステ−タスがあがる。しかし果たして、「大学」というものの実体がどんなものであるかということは考慮されているだろうか。
正直なところ、「大学」に属している人間も属さない人間も、果たして「大学」というものが本当に社会的なステ−タスとして認められるほどの実体を持っているものなのかは、あまり考えようとしていないのではないかと思えるのである。
Fランク化する大学

本論文制作から20年。残念ながら、私が大学在籍時代に感じていた懸念が顕在化。このような書籍が出版されるまでになってしまいました。
さて、私自身その「大学」というシステムに属しているわけだが、私はこれまでずっと、西欧の思想が大学の中で主流になっているということに疑問を抱いていた(もともと「大学」自体が西欧のシステムに基づくものだからそれは当然のことだ、と言われればそれまでだが)。
西欧思想がすばらしい側面を持っていることは認めよう。しかし、たまたま「陰陽五行思想」や「仏教」についての知識がほんの少しとはいえあった私は、周りの人間が大して理解もしていないのに西欧思想を根拠にして宗教や怪異現象、日本古来の思想を「非合理的なもの」としていることに憤りすら覚えた。
なぜなら、私自身は宗教も怪異現象も合理的なものと考えていたからである。
おそらくそれは、「合理的」というところの「理」という言葉を私が「理性」の「理」ではなく、「理(ことわり)」としての「理」として考えていたからだと思う。
岩波の国語辞典を引いてみよう。
岩波 国語辞典 第7版 新版

岩波書店の国語辞典。日本語の標準的な辞典として改訂を重ね、初版から約50年、累計880万部の実績。
「合理: 物事の理屈に合うこと」とある。どうやら、この意味では私の「合理」のとらえかたは間違ってはいないようだ。宗教などはその意味では決して非合理なものではない、と私は思う。
宗教を信じるということは、それまでに自分が信じていた理論(世界観)とは別の理論(世界観)を見いだし、それを信じる行為であると私は考えている。
現在自分が信じている理論(世界観)では説明のつかない、別の理論(世界観)の存在を信じることが出来ないとき、それを「怪異現象」と呼んでいるのに過ぎないのではないだろうか。
科学は決して唯一の「理(ことわり)」などではない。単に世の中に数多く存在する世界観の中の一つにすぎないと私は思う。
しかしなぜ現代ではこれほどまでに科学の世界観が受け入れられているのであろうか。また、なぜ科学技術が発達し、西欧的な世界観を受け入れることによって文明が飛躍的に発展するのであろうか。なぜ宗教と同格のものとして扱うことが出来る科学が、宗教を科学の対象として組み込んでしまうことが出来るのだろうか。
このようなここ数年来私が抱き続けていた疑問を少しでも解決に近づけるために、以下の文章では、科学以外の様々な世界観を扱う。
例えば原始社会に見られるアニミズムやシャーマニズムそして呪術、いわゆる「神」を中心とした宗教、日本に古くから存在していたものであり、その影響が様々な形で残っているにもかかわらずあまり詳しくは知られていない「陰陽五行(陰陽道)」の思想や、すばらしい理論を備えていながら大部分の西欧の学問と同じで、高尚すぎて一般人にはほんの一部しか知られていない「仏教」などがそうである。
これらの思想について理解した上で、なぜいわゆる「西欧思想」や「科学」がこれほど日本に浸透していったのか、またそこから発展して、なぜ「科学」がこれほどまでに発達したのかという事について考察してみよう。
各章では普通の人間が非合理であると判断してしまうような世界観のなかに「理(ことわり)」を見出そうと試みた。本章に入る前に、先ほどから出てきている普段使い慣れないこの「理(ことわり)」という概念を定義しておこう。