携帯音楽プレーヤーで音楽を聴く。耳からは音が入ってくる。しかし、音楽は耳で聞くものじゃない。身体で聴くものだ。例えばそこが電車の中なら、耳から入ってくるのは「音のふるえ(音楽)」だが、目に入ってくるものは音楽じゃない。目に入ってくるのは、人であり、電灯であり、窓であり、車内灯の明かりだ。肌で感じるのは、車内の熱気や空調設備の風だ。肌で感じるのは、暖房の暖かさや冷房の涼しさだ。耳から音楽は入ってくるが、実際に感じているリズムは列車が枕木を通過するリズムだ。
香水をつける。例えば、花の香りを感じる。しかし、そこに花は見えない。風にそよぐ茎の音もない。上を見上げてみても、色彩が映える空がない。
画集を見る。たとえそれがどんなに大きなサイズの画集でも、それはドットの集まりだ。部屋に灯っているのは、色彩さえ変えてしまう蛍光灯の灯りの中だ。画廊の凛とした空気も感じられない。遠くから離れて見ることもできない。様々な生活の音が、鑑賞の邪魔をする。
感覚が分断されている。ダンスミュージックをかけながら、身体が動いてこないとはどういうことだ。ジャズを聴いて、なぜスウィングできないのか。そのくせ、音楽を語る。知識と理論をひけらかす。頭と感覚が分離している。
(以上、10年ほど前の多摩美術大学入学試験問題を基にしての考察)