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価値を与えるのは、人間だ。

氷の芸術に感嘆の声(毎日新聞 2005.1.14)

(記事概要)
秩父地方の気温は連日氷点下を記録し、荒川右岸の岸壁につららの大群が出現した。(記事概要以上)

「自然の芸術」という表現はよく使われるのだが、厳密に言えば「自然の芸術」は存在しないと、私は解釈している。先の記事に書いたが、私は、「アート」という言葉を、自然のものではない概念や感情を表現するために想像力を使用すること、つまり、自然の摂理から逸脱する(=自然のものではない)感性と知性を持ってしまった人間に備わっている、無限大なる可能性を体現してゆく行為だと思っているからだ。

美というものは、物質に備わっている属性ではない。例えば、美しいと思わせる素描(デッサン)があったとする。しかしそれは、本来紙に炭素の粉をのせただけのものであり、物質の属性として美しさを持つものではない。仮に、ある人間がそれを見た時に美しいと思ったとすれば、それは、その素描を鑑賞した人間に美を愛でる心が存在したということであり、単なる紙の上に炭素の粉がのせられただけの物質が、見ている人の心を動かしたということなのである。

つまりデッサンというのは、本来は何の価値も持ってはいない、単に紙と炭素の粉に過ぎない本来無価値なものを感性によって組み合わせることによって、それを「良い」と思わせる行為なのだ。例えば色彩構成なら、本来それ自体では何も「意味」が付加されていない「色」と「形」に、意味を付加して構成を行う行為である。つまり、本来は無価値なものに価値を与えるという大それた行為が、アートなのである。

実は、これは何もアートに限定されたことではない。「言葉」にも同じことがいえる。言葉とは本来は人間の口を媒介として、ただ単に「空気がふるえる」現象を指すものである。しかし、人間はその「空気のふるえ」に意味とパターンを与え、その組み合わせによって自分の内的な世界を外に向けて発信することを文化として持っているわけである。これが「文字」であれば、言葉においての「音のふるえ」が「点と線」に置き換わっているだけのことだ。

これが、私が再三に渡って「作家だけがものを作ってるわけじゃない」とか「全てが同じもので、そのたったひとつのものを、別々の視点から見ているだけじゃないか」とか、本ブログ内で書いている理由なのだ。

人間は「本来は価値の無いものに、価値を与える」という素晴らしい行いをすることのできる生き物だ。それが地球上に存在する他の生き物よりも圧倒的に勝っている点であり、人間が「文化」を持つことのできたきっかけとなっているのである。だから、人間にとっては無価値なものなど、無意味な行為など、存在しないのである。モノや行為の属性が無価値だったり無意味だったりするのなら、それに人間の持っている素晴らしき能力を発揮して、「意味」と与えてやれば良いのだから。

言葉は相手に伝わって当たり前だと、思ってはいないだろうか。表現さえしていればそれがアートになると、そう思ってはいないだろうか。言葉もアートも、その本質には「表現すること」が含まれてはいるが、音のふるえと画材という物質をただ単に組み合わせただけでは、あるいは「相手にわかってもらう」というその部分をしくじってしまった場合には、けっして相手に伝わらないし、まして「良い」「美しい」などとは思ってもらえないのである。本当に大事なのは、表現する(自分の個性を外に出す)ことではなく、相手の心を動かすことなのだ。だからこそ感性と知性を最大限に発揮させて、相手に理解してもらうために、あらゆる努力を惜しんではならないのだ。感性(センス)だけでは、アートは成立しない。個人の持つ感性(センス)を相手にわかってもらおうと「努力」してはじめて、それは伝わってゆくものなのであり、人の心を動かしうるのである。

自然の造形は美しい。しかしそれは、自然の造形を美しいと思わせる、人間の感性があって初めて成立しているものなのである。私は人間の感性を賛美し、その無限の可能性を信ずる。だからこそ、ものを作り出すことを標榜している人間、つまり作家の人間性を、私は何よりも厳しい目で見る。