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生き物の力を信じたい

自己流のサプリメント選びは危険(夕刊フジブログ 2005.1.13)

ここ数日、ネット上でサプリメントに関する記事をいくつか見かけている。一日に必要な栄養素をなかなか摂取できない現代日本人の約4割がサプリメントに頼っているということなのだが...。

私は、サプリメントというもの自体に疑問を抱いている。そもそも、「一日に必要な栄養素をきちんと補給しなければならない」という考え自体が、現代人によってでっち上げられたものでないかとすら、思うのである。なぜなら、人間という生き物が生まれて以来、「一日に必要な栄養素をきちんと補給する」ことができた人間など、歴史上にほとんど存在しないのではないかと思われるからだ。

考えてみれば、昔は交通の便も良くない。食材の輸送などがスムーズにいっていたはずもない。金持ちや身分の高いほんの少数の人間は豊富な食材で食事をしていたのかもしれないが、その他大勢の人たちは、自分の生活圏内で入手できる食材を元にして、それこそ一汁一菜程度の食事しかできなかったはずだ。しかし、それでも何十年という単位で一人一人の人間は生存し続けてきたわけだ。一日に必要な栄養素を全てきちんと補給しないことが不健康につながるのだとしたら、はたして昔の人間は、みんな不健康だったのであろうか。

私は、人間の持つ内在的な肉体の力にもっと目を向けるべきだと思う。例えば、昔の人間はよく歩いた。便利な交通機関が無いからこそ、一日に何キロも歩くのが当たり前だった。たとえ食は充実していなくとも、歩くことによって日常的に運動をし、両足の生み出す一定のリズムによってからだが活性化し、健康に生きてゆくことができたのではないだろうか。生き物の力は不可思議である。極端に特定の物質が少なくなることは病を引き起こすが、許容範囲内での栄養素の誤差などは、実は肉体の活性化によって、かなり改善できるのではないのか。

現代人は豊富な食材があるにも関わらず(何度も書いているように、食材の質はじつは低いのだが)、便利な交通機関を利用することによって自分の身体を活性化する「歩く」という機会を失い、資本主義社会の中で生き残るためと信じて生き急ぎ、あせり、肉体と心にストレスを溜め、高い金を払ってジムに通い、食事を抜いてサプリメントに頼ったりしているのではないか。

そもそもサプリメントは、長い目で見た時に、本当に健康に貢献するものなのか。人間の消化器官は、様々な栄養素と物質の集合体である食物を分解し、選り分け、必要なものを吸収して不必要なものを排せつするようになっている。しかし特定の物質を主に錠剤という形で固めているサプリメントは、必要な栄養素を不必要な物質とより分けて分解することなく、簡単に体内に吸収できてしまう。消化器官が本来の機能を果たさずとも簡単に栄養素を吸収できてしまうような状態が何年も続いた時、消化器官の本来の機能が低下してしまったりはしないのだろうか。楽なことをやってばかりいる人間がダメになってしまうように、消化器官も本来の能力を果たさなくなってしまったりはしないのだろうか(学術的にこの答えがどのように出されているかは、私は寡聞にして知らない)。

世の中には様々な食に関する情報が溢れている。よく見てみれば、「~は...という物質が含まれていて、身体に良い」などというのは、ほとんど全ての食材に関して言われていることなのだ。結局、同じものをずっと食べ続けたり、片寄った食生活をしたり、運動不足になることが問題であって、「一日に必要な栄養素を満たす」というのは、単なる数字上の理想論に過ぎないのではないだろうか。

「同じものをずっと食べ続ける」ことが病的なことなのだとしたら、「同じサプリメントを継続的に飲み続ける」ことも、もしかしたら同様に病的なことなのかもしれない。