人に優しくする時、相手のどのような時間を考えながら、優しくするのだろう。
過去。過去をいたわる。人間誰しも過去を引きずっているものだし、過去なんて大抵どろどろしているものだから、それを包み隠したり忘れようとしたりして、現在を生きている。しかし、優しくしても、過去を変えることはできない。
現在。現在を生きる。しかし、現在というこの瞬間は、次の瞬間には過去という領域に入ってしまう。現在などという言葉自体が実は非常に曖昧だ。人は現在のために生きるのではない。一瞬後には過去に転じてしまうような儚い瞬間のために、人は生きるのではない。だから、消えてしまう現在のために、人は優しくするのではない。
未来。未来を見る。現在という瞬間が次々と過去に送り込まれてゆき、過ぎ去ってゆく中、それでも、流れゆき、終わってしまう時間の儚さや空しさを考えたくないのなら、未来を見ることになるはずだ。今、この瞬間に人に優しくすれば、そのことによって来るべき次の瞬間に、つまり来るべき未来という時間に、その人の心の傷を癒すことができるかもしれない。その人が満たされるかもしれない。人は相手の未来をより良いものにしようとするからこそ、優しくできるはずなのではないのか。
しかし、未来を見ることなしに、今この瞬間、つまり、現在だけを見て、優しくすることと上辺だけは同じような行為をすることができる。あるいは、現在という時間のみを見て優しくする行為と、言い換えても良い。それを、「甘やかす」という。
次々と消え去ってゆく現在という瞬間を心地よく消化してゆくだけなら、誰にだって可能なことである。その心地よさは一見人に優しく見えるかもしれないが、そのような甘やかしの「現在という一瞬」を連続的に過ごしたとしても、未来は決して変わることがない。
相手の未来を考え、このままではダメになる、と思った時には、時には厳しくすることも必要になってくる時がある。私は、厳しくすることができない人間は、「優しい人」という範疇には入れない。私にとっては、厳しくできない人間は「甘やかす人」という範疇に入るのだ。
今という一瞬ではなく、相手の未来のことを考えていれば、未来をより良いものにしてゆくために、時には相手に厳しくしなければならない時もある。優しさは、厳しさも同時に合わせ持っていなければならない。それが本当に相手のことを思い遣ってやる優しさなのである。
そう考えると、自分の考えるような意味で優しい人間というのが、ほとんどいないということに気付く。これでは、次世代を担う子供達がダメになってゆくのも、当然である。きっと彼らは自分が受けてきた「甘やかし」を優しさだと認識し、自らが大人になった時には、自分より下の世代に優しくするつもりで、自分達が経験してきた一瞬の刹那のための優しさ、つまり甘やかしをするのだろう。そして、そうやって育てられた子供達がさらに大人になって...
未来のことをちゃんと考える人がいなくなった時、どうなってしまうのかを想像するのは、大して難しいことではないはずである。