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【第3章 一神教の理 D】キリスト教 罪と力の獲得

聖書の創世紀の続きを見ていこう。

神はエデンの園にアダムとイブという二人の人間を置き、園を耕させ、守らせた。この時アダムとイブは裸であったが、二人とも裸であることが恥ずかしいとは思わなかった。

しかし神が作った生き物の中で最も狡猾な蛇が、神に食べることを禁じられている善悪を知る木の実を採って食べるようにとイブを誘惑する。イブはその誘惑に屈し、善悪を知る木の実を食べてしまい、夫アダムも木の実を食べてしまう。すると二人の目が開け、二人は自分たちが裸であるということに気づき、いちじくの葉をつづりあわせて腰に巻いた。

そのとき神がエデンの園にやってくる。アダムとイブは自分たちがいちじくの葉を巻いただけの裸の姿で神に会うことを恐れて神から身を隠そうとするが神に見つかってしまい、神が食べることを禁じた善悪の木の実をアダムとイブが食べてしまったことを見破られてしまう。

神はアダムとイブが神の命に背いたことに対して罰を与える。イブつまり女は産みの苦しみが増し、夫つまり男に支配されるようになる。アダムつまり男は生きていくための食物を労働によって得なければならなくなる。そして人は死んで土に帰る存在となる(ちなみに、聖書においてはイブのことを「女」と呼ぶ一方でアダムのことを「人」と呼んでいる)。そしてアダムとイブはエデンの園つまり楽園を追放されたのである。

アダムとイブが善悪を知る木の実を食べるという行為は重要な意味を持っている。二人は善悪を知る木の実を食べて初めて自分達が裸であるということを知った。つまり、裏を返せばそれまでは自分が裸であるということに気づかなかったのである。それまでは自分たちが何も身に付けずに裸でいるということを当たり前のことだと思っていたのである。 それまでは当たり前だと思っていた裸であることが、善悪を知る木の実を食べることによって当たり前ではないと思うようになった。人間は善悪を知る木の実を食べることによって、それまで当たり前であるとされていたものを当たり前でないと思うことが出来るようになったのである。

神は人間に、神と同様に言葉によって自分たちで世界を区切っていく力を与えた。更にそれに加えて人間は神が食べることを禁じた善悪を知る木の実を食べることによって「当たり前であるということ」を覆してしまうことが出来るようになった。つまり、人間は単に言葉を使役することによって世界を区切るだけでなく、世界を「解釈」していくことが出来るようになったのである。

世界を区切っていくことと世界を解釈していくことは似ているようでいて実は大きく違う。世界を区切っていくということは単に世界を分類するということである。例えば「この現象を『風』と呼ぼう」「この状態を『暖かい』と呼ぼう」というように。つまり、ある一つの物事を他の物事との差異を基準にして名付けていく行為である。しかしこれに対して、世界をあるいは物事を解釈することとは、その名付けられた物事の裏に流れている「理(ことわり)」を見いだそうとする姿勢である。つまり、「風が吹くとはどういうことか」「暖かいとはどういうことか」を考えるということであり、これは言うまでもなく科学的思考の萌芽となるものなのである。

しかし、人間は力を手に入れる代わりに神によって罰を与えられた。そしてこのことから、神が禁じた行為を行ったということで人間は均しく神にたいして罪を背負っているという思想(原罪思想)が出てきたのである。また、楽園を追放されたということは、それまで自分達では何も考えずに全能の神の下で暮らしていけた状態から、全ての物事を自分たちで考えなければ生きていけない状態になったということである。人間は、世界を解釈する自由を手に入れた代わりに、強制的に自分達で世界を解釈しなければならない状態へと追い込まれたのである。

人間の祖先であるアダムとイブが禁断の木の実を食べてしまったことにより、人間は自分たちの意志によって好きなように世界を区切り、それを解釈することが出来るようになった。当たり前であったことを当たり前でなくしてしまうことが出来るようになったのである。そして人間は大きな力を得ると同時に罪を背負い苦しんでいく存在となったのである。

ギリシャ神話にしろ、キリスト教にしろ、西欧の神の思想に共通している人間が苦しんだり罪を犯したりするきっかけを与えているのは「女」の存在と、神の命じた禁忌を犯すという二つの要素であるというのは興味深いことである。また、人間は神の定めた禁忌を犯すことによって同時に大きな力を手に入れている。ギリシャ神話においては大神ゼウスが与えることを禁じた「火」をプロメテウスが与えたことをきっかけとして、パンドラという女の存在によって人間達の間には様々な悪徳がはびこるようになった。そして人間は火を手に入れることで大きな力を手に入れ、オリンポスの神々の手に追えない存在となったことは前述した。キリスト教においては、神がアダムのために作った女イブが蛇の誘惑に負けてしまうことをきっかけとして、人間は善悪を知る木の実を食べることによって当たり前のことを当たり前のことでないとし、世界を自由に解釈するという力を手に入れた。これは逆に考えれば、人間は無条件には力を獲得することができないということなのである。これらの、人間が罪を犯すと同時に獲得した力は、西欧の世界観の変遷を大きく方向づけるものとなっていったのではないだろうか。