translation

【第5章 仏教の理 B】前釈迦時代

仏陀の思想は仏陀以前にインドに存在した思想に大きな影響を受けている。インド最古の文献は紀元前千二百年頃に成立した『リグ・ヴェーダ』である。「ヴェーダ」とは「知る」を意味する動詞から派生した言葉で、「知識」「宗教的知識」「知識を集録している聖典」という意味を持った言葉である。『リグ・ヴェーダ』を筆頭にインドでは膨大な数と量の『ヴェーダ』が編成され、それがバラモン教と言われる宗教の基盤となっていった。バラモン教は特定の開祖を持たない、多くの神々を崇拝する多神教であり、その神々は第二章で見たような多神教の神々と同じで自然物や自然現象の神格化されたものであったり、人間や社会に備わった属性を象徴する神であったりする。つまりはこの段階でのバラモン教は象徴の世界観の色合いが強いのである。そしてこれらの象徴の神々の恩恵を得るために祭壇を設けてソーマ酒と呼ばれる酒を供え、祭ったのである。

しかし次第に祭式の規定が複雑化し、祭式万能主義になってゆく。神々でさえ祭式に依存すると考えられるようになり、最終的には祭式を司っているバラモンと呼ばれる祭司が自らをも神格化し、バラモンが社会における最高位の位置を占めるようになった。このバラモンを筆頭とした厳しい階級社会がカースト制度であり、現在でもそれは根強く残っている。バラモン教とはバラモン階級を中心にヴェーダ聖典に基づいて発達したインド土着の文化・宗教の総称であり、バラモン教徒というものは存在しないのである。そしてこのバラモン教を基盤としてヒンドゥー教が生まれた。ヒンドゥー教もバラモン教のように混然とした文化・宗教の複合体として便宜上の呼称とも言えるものであり、決して入信や改心によってヒンドゥー教徒となるものではない。ヒンドゥー教徒の子として生まれることによって、ヒンドゥー教徒となるのである。ヒンドゥー教は社会習慣的性格を持つものなのである。

バラモン教もヒンドゥー教も多神教の宗教であったが、やがてバラモン中心の社会構成が崩壊していき、そのことに対する不安感から厭世感が広まり、苦行主義が出現し、神秘的・瞑想的な知識が重要視されるようになっていった。しかしその一方で、ヴェーダ聖典の中のウパニシャッドのような、宇宙を成り立たせている神々をも超越した絶対唯一の根本原理を追求しようとする動きも出てきて、その唯一絶対の根本原理を追求していく思想が仏教に大きな影響を与えていくのである。

ウパニシャッドでは宇宙の根本原理は「ブラフマン(梵)」と、個人存在の本体である「アートマン(我)」であるとされた。ちなみにアートマンの「個人存在の本体」という意味は、アートマンとは主観客観の二元対立を超えた決して客体化されることのない、認識対象として認識したり言葉において表現したりすることのできない自我ということである。つまりブラフマンとは宇宙を抽象の世界観で捉えたものであり、アートマンとは人間を抽象の世界観で捉えてものだといえるだろう。ここから更に発展してアートマンはブラフマンであるという梵我一如(ぼんがいちにょ)の思想に発展する。つまり、宇宙の存在と個人の存在は同一のものであるというのである。ウパニシャッドの思想ではこの他に「業」と「輪廻」、そしてそれからの「解脱」が人生の究極の目標とされた。「業」は全ての人間の行為は行為の直後に消滅してしまうのではなく潜在的に蓄積され、死後の運命を決定するものであり、業によって決定された運命による生死の循環が無限に繰り返されるというのが「輪廻」であるとされた。

これに対し善悪の業のような二元対立を超えたところにブラフマンがありると考え、そのブラフマンと合一、つまり宇宙の抽象と人間の抽象を合一させることがあらゆる束縛から逃れて業や生死、輪廻を超越した状態つまり「解脱」である。梵我一如の状態はいわば究極の抽象であるといえる。ウパニシャッドの思想は明らかに抽象の世界観の色合いを強く持ち、ブラフマンという宇宙の抽象に人間が本来備えているアートマンという抽象性を合一させること(解脱)を人生の究極の目標としたのである。

つまりウパニシャッド哲学では全ての存在は宇宙と合一することのできる性質を持っているのだ。一つのものは全てのものというわけである。宇宙と合一出来るのは人間だけではないことに注意してもらいたい。なぜならすべての存在は輪廻によってお互いに流転していくものだからである。このウパニシャッドの思想がインドの根底にあり、それを基盤としてあるいはその否定によってさまざまな思想がインドに登場するようになる。釈迦の説いた仏教も最初はその中の一つの思想の潮流に過ぎなかったという。