釈迦は自らの執筆による著作をいっさい残していない。また本来仏教経典とは執筆されたものではなく、師の口から発せられる言葉を耳で聞いて理解し、味わい、憶えるものである。だから釈迦の思想というものを完全に把握することは現段階ではほとんど不可能である(また、ブッダの思想とは“悟る”ことであり、“悟る”ということを言葉で説明すること自体不可能である。この事については後述)。しかし、そうも言ってられないのでここでは主に『ブッダを語る』(NHKブックス)を参考にして釈迦の思想を見ていこうと思う。
生老病死
釈迦の回想に次のようなものがある。
「人間は均しく老いることを免れないのに、他人が老衰したのを見てはそのことを悩み、恥じ、嫌悪する。自分もまた他人と同じく老いるのを免れない。それなのに他人が老衰したのを見ては悩み、恥じ、嫌悪する。」
「人間は病むことを免れないのに、他人が病んでいるのを見てはそのことを悩み、恥じ、嫌悪する。自分もまた他人と同じく病むのを免れない。それなのに他人が病んでいるのを見ては悩み、恥じ、嫌悪する。」
「人間は均しく死ぬことを免れないのに、他人が死んだのを見てはそのことを悩み、恥じ、嫌悪する。自分もまた他人と同じく死ぬのを免れない。それなのに他人が死ぬのを見ては悩み、恥じ、嫌悪する。」
釈迦は、「老・病・死」は人間にとって避けられず超えられないにもかかわらず、他人の「老・病・死」を見ては考え込み、悩み、恥じ、嫌悪するという自分あるいは人間についての性向について深刻に考えている。自分では超えることができないものを自らの中に持っているにも関わらず、他人がそれを超えることができなかったのを見てそれを悩むという人間の性向はどのように解決できるだろうか。仏教の目指すところの「悟る」こととはそこから出発するのではないだろうか。
ここで問題となってくるのはまず悩んでいる人間が、自分では決して超えられないものを超えようとしていることである。つまり、老いるということ、病むということ、死ぬということから無理に逃れようとせずにありのままを受け入れることができれば悩まなくてすむのである(病むことを受け入れるということは、決して進んで病もうとすることではなくて、病んでいない状態の時に将来自分が病んでしまうかもしれないという恐怖感を持たないということである)。自分では決して超えられないものを超えようとするから悩みが生じるのだから、最初からそれを受け入れてしまえば悩まなくてよくなり心が安らかでいられる。それが、涅槃の境地、つまり心が平静でなにものにも悩まされることのない境地につながってくるのである。
もう一つのポイントは自分と他の人間とは、人間であるということにおいて決して差があるものではないということである。これはアートマンがブラフマンと合一するつまり一つのものは全てのものであるというウパニシャッド哲学に類似した考え方であるといえよう。人間である他人が老い、病み、死ぬのだとしたら自分もまた人間である限り老い、病み、死ぬのである。それならば自分が人間であろうとする限り老い、病み、恥じることはないではないか。だから老い、病み、死ぬことこそ人間の存在の証明ということもできるのではないのだろうか。自分が人間であることを受け入れてしまえばもうそのような考えに煩わされることはないのではないだろうか。
釈迦の教えは知識を追い求めるものではなく、自分が人間であることに気づき、それを受け入れることにその本質があるといえよう。だからたとえどんな優れた人間であっても、自分自身を受け入れるということに気づかなければ、また、たとえそのことに気づいたとしても自分自身を受け入れられなければ心が安らかな状態にはならないのである。釈迦の教えは心が安らかでなにものにも煩わされない状態、つまり涅槃という万人に共通する究極の抽象を目指すものでありながら、自分自身の「気付き」という自分自身にしか分からない、決して言葉では他人に伝達することの不可能な自我(アイデンティティ的自我ではないアートマン的自我:決して客体化されることのない自我)に依存し、その中でしか涅槃という究極の抽象を認識することができないという一風変わった性質のものなのである。
だから仏教には様々な経典があり、教えがあるが、その一つ一つは決して悟りという状態を表してはいないといえよう。なぜなら「悟り」あるいは「気付き」の状態は決して言葉で表すことのできないものだからである。経典も教えも、自分自身を「受け入れる」ための道しるべにすぎず、いくら道しるべを集めたところで決して「悟る」事は出来ないのだ。私は全ての学問の本質はそのようなものであると思うが、どうであろうか。