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【第6章 言語の理 A】言葉というもの

人間にとって言葉というものはとても重要な意味を持っている。どのような文化でも言葉を基礎にして成り立っているといってよいであろう。言葉は人間が自分たちの意思を表示するにはなくてはならないものなのである。

例えば、言葉を介さない単なるコミュニケーションであればこの地球上に存在する生命であればどのようなものであれ必ずといってよいほど行っている。例えば身近な例を挙げてみれば、犬は小便をひっかけることによってコミュニケーションする。つまり、散歩中の犬が電柱などに小便を引っかけるのは、他の犬にその場所が自分の通った道であり縄張りであるということを明示するためである。犬は非常に嗅覚が発達している。小便をひっかけられた電柱のそばを通った犬はその小便の匂いをかぎ、その小便をかけたのがどの犬であるか、また小便の匂いの残り具合によってどのくらい前にその小便をかけた犬がそこを通ったのかまでを判断するわけである。又、花の蜜を集める蜂が蜜を集めるのに格好の場所を見つけたときに、巣に帰ってから仲間にその蜜を集める穴場を伝達する方法も観察されている。蜜の穴場を見つけた蜂は自分の巣に帰ると巣の上を算用数字の「8」の字を描きながら羽根を震わせる。その羽根の震わせ方と「8」の字の描き方で巣から蜜の穴場までの距離と方向を他の働き蜂に伝達するというのである。

又、トウギョという魚は交尾の際に水中ダンスを踊る。トウギョは普段は灰褐色をした魚であるが、別のトウギョが近づいてきてお互いの存在を認識すると、身体の色が変化して美しい色合いに輝き出す。そしてその二匹のトウギョのダンスが始まり、二匹のトウギョが雄雌同士であればそのダンスは交尾へと導くダンスとなり、雄同士であればそれは戦いへのダンスとなる。トウギョは相手を見ただけではそれが雄であるか雌であるかを見分けられないために互いのダンスの踊り方とその反応によって、相手が雄であるか雌であるかを見分けるというのだ(コンラート・ローレンツ『ソロモンの指環―動物行動学入門』)。

しかし、これら動物のコミュニケーションは限られた範囲内のみでしか有効でない。犬の小便は縄張りの明示という目的を超えて機能することはない。蜂の「8」の字運動は蜜の在処を指し示すという目的を超えないし、トウギョのダンスも求婚あるいは闘争という目的を超えない。あるいは彼らはそれ以上の目的を必要としないのだ、と言い換えてもよいかもしれない。

しかし、人間はそれらの動物とは決定的に異なっている。人間は「言葉」というたった一つの概念で表される手段で、実に様々な目的で様々な物事を伝達するようになるのである。言葉によって表される範囲はほぼ無限であり、決して一定の範囲に限られてしまうことはないのである。

たった一つの物事を伝える必要性しか生じないのであれば、おそらく言葉というもの自体は必要なかったであろう。それは例に挙げたような蜂やトウギョのようなジェスチャーのみによっても伝えることが出来るものだからである。しかし、直立歩行で、つまり二本の足で歩くようになり、脳髄の発達した人間にとっては非常に限られた範囲のみでしか働かないコミュニケーションの方法ではなく、殆ど無限の範囲を包括するようなコミュニケーションの手段が必要になってくる。それが、「言葉」である。言葉という概念自体は全てを包括するもの、つまり「抽象的な」概念なのである。

さて、その背後に様々な「理(ことわり)」の存在を必要とする様々な世界観を表現するためには、この殆ど無限に物事を表現する可能性を持った「言葉」に頼るしか方法がない。だから世界観というものは必ず何らかの形で言葉によって表現されるのである。

通常、言葉は発せられると同時に消えてしまう。言葉は発せられたときにそれを聞いていたもの以外には直接的に効果を示さない。言葉自体は人から人へ時間と空間を超えて「伝聞」という形で伝達される可能性があるが、それが確実に伝達されるという保証もなければ、たとえ伝達されたとしてもそれが言葉を発した人間の意図をかなえる形で残っていくという保証もない。言葉は全てのものごとを包括する可能性(抽象性)を持ってはいるが、確実性に欠けているのだ。そこで、その不確実性を補う手段として文字が発明されるのである。

消えてしまう言葉を確実に残しておく手段として文字は最適なものである。当然のことながら文字は言葉の性質と連動し、あらゆる物事を表せるという性質を備えたものでなければならない。そのような性質を備えた文字には大きく分けて二つのパターンがある。まずは、文字がどのように発達していったかということを歴史的に見ていこう。