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【第7章 科学の理 C】人間という限界

人間という限界

人間はキリスト教の出現を契機として世界観によって自分たちで世界を解釈することを始めるようになった。しかし、少なくとも日本においては、仏教では既に認識されていた問題が科学にも起こったのではないだろうか。つまり科学といえどもそれまでに存在していた世界観、例えばアニミズムや神を中心とした世界観と同じで本来は人間が世界を解釈していたということに過ぎなかったのであるが、全てを包括するという抽象的な考え方を自分たちで使役しようとする科学的世界観の中で生きているうちに、全てのものが自分たちの解釈によって、つまり科学的・合理的に動いていると錯覚するようになってしまったのではないだろうか。

世界を理解する手段として扱われていたはずの科学的世界観は、現代では一般的にそれ自体が世界を動かしている究極の抽象とほとんど同義のものとして扱われてしまっている。しかし、科学は人間という属性の中で理解されているものに過ぎないのであって、人間の属性を超えては通用しないものである。だから科学はしばしば間違いを犯す。それまで正統と信じられていた学説が批判されたり覆されたりしたことのなんと多いことであろうか。そのことは、前述したケプラーとコペルニクスの例で明白である。

どのような学説も自分の視点で世界を解釈したということにすぎない。決してそれは本質を完全にとらえたものではない。本質をとらえたかのように見えるにすぎない。あるいは、ある一定の範囲内でのみ、その法則が本質をとらえているに過ぎない。例えば、エネルギー保存の法則は物質の世界では絶対の真理といえるかもしれない。しかし、果たしてそれは反物質の世界でも真理であり続けることができるのであろうか。

しかし、通常生きている世界は物質のみで構成される世界なのであって、ここで反物質のことを考えるのは、はっきり言ってナンセンスである。しかし反物質の世界はそうは言っても存在はしているのである。つまり、存在はしているが扱わないほうが良い問題というものがあり、それを除外していくことも必要になってくるのである。そしてその部分はなかったかのように扱うのが普通であり、除外した部分を除けば、ある法則は真理となってゆく。それはどの世界観の中でも行われていることであり、決して悪いことではない。

科学を絶対の真理と錯覚することはひとえに科学的世界観の持つ抽象概念でものと捉えていくという性質のなせる技にすぎない。この、全てを包括することの出来る抽象概念でものごとを捉えていくという考え方が科学を異常なまでの速さで発達させたのではないだろうか。しかしどのような抽象概念を持ち出したとしても、それを考えるのが人間である限り人間の属性を超えたものに至ることは出来ないといえる。ある意味でどのような世界観も人間が世界を区切り、自分達自身で考え出した性質を付与しているものであるといえよう。

つまり科学は抽象の世界観を目指していながら人間という属性を超えることの出来ない、つまり属性を超えられないという意味では象徴の世界観として捉えられるのである。

言葉という世界を区切っていく性質のものでは、そこから漏れていくものがあるのは必然である。どんなに100%に近づいても決して100%に至ることはない。これは科学が限りなく100%に近いものを求めていくのに似ている。100%に至るということは区切らないことであり、全てを受け入れることである。仏教の「悟り」がそうであるように、それは言葉によって達成できるものではない。

決して100%に至ることが出来ず、どのようにすばらしい学説を打ち立てても必ずそれが覆されてしまうとわかってしまったら、そこに空しさを感じる人が出てくる可能性はある。そこに気づいたとき科学は自己矛盾の苦しみに突入するかもしれない。科学の世界観は自らを否定してしまうような性質を持っている。どのような世界観でさえ多かれ少なかれそのような性質は持っている。釈迦が教えたように自らの性質に気づき、それを受け入れることが出来なければ、世界観は自殺をするだろう。

科学も結局は人間のための世界観である。人間のための学問である。もしその存在自体が人間自身を苦しめるとしたら、科学の世界観は「人間のための世界観」という意味においては他の世界観と同様であるといえる。

今後、科学という世界観が生き残れることは出来るのだろうか。科学は自分自身を受け入れるだけの強さを持った世界観であろうか。合理的とは、結局は人間の理性に合致するというものなのである。それは決して究極の「理(ことわり)」ではないのだ。人間がそれを認識している限り。